高知の仁淀川は、本当の清流です。
高知に来て、この仁淀川の美しさに魅了されました。
日本人は時に、自然に自分の心情を映します。
仁淀川を眺めるとき、そういう自然に寄り添う感性が溢れてくるでしょう。
日本一の清流、仁淀川
高知の一級河川で一番好きな川は仁淀川です。
仁淀川は上流も中流も下流もすべてが美しく、違った風景を四季折々に見せてくれます。
仁淀川支流にある「にこ淵」(いの町)は、仁淀ブルーの名所として人気スポットになりつつあります。
いの町程野(ほどの)には行った事がありますが、残念ながら「にこ淵」まで降りたことはありません。
というのも、仁淀川沿いを走ればあちこちで青く美しい川面が見られるからです。
面河渓(おもごけい)、安居渓谷、中津渓谷、どこへ行っても水は澄んで青く美しい。この青さはどこから来るのだろう?
そして中流域でも仁淀川の違う風景に出会うことができます。
仁淀川の美しさは青さだけではありません。
中流域でたびたび見る川面に漂う川霧は幻想的で、まるで日本画の世界のようです。
ときどき魚が跳ね水面を揺らします。
自然はなんと美しいのでしょう。
下流域に入ると川幅は広くなりゆっくりとそして雄大に流れ、川面は日を浴びて光り輝き、そして水鳥が川辺に降りています。
下流域ですら、その清流の姿は変わりません。
仁淀川に癒される
人はいろいろなことに悩み、そして迷います。
悩み、戸惑い、悲しみ、苦しみ、不安、様々なものがいつの間にか自分を追い詰めている。
自分は苦しい時に仁淀川に二度癒され、そして今の自分があります。
苦しい辛い悲しい・・・自分の中ではそんな思いでいっぱいになっている。
たまたま仁淀川を通りがかり、ふと止まって川面を眺める。
仁淀川はその美しい川面のまま、自分の目の前を悠々と流れている。
この川の流れは、自分が生まれる前から流れ、そして自分がいなくなった後も流れている。
こういった自然の時間の中で人の時間はなんと短いのだろう。
このような自然の中で人はなんとちっぽけな存在なのだろう。
自分にとってはこの悩みがとても大きくて、それが自分のすべてを占めているかのように思えるけれど、実はちっぽけな存在の僅かな時間の中の悩みなのだ。
仁淀川を眺めていると、自分がどんどん小さく見えていく。
それにしたがって自分が悩んでいることも小さく見えてくる。
雄大な自然の中でちっぽけな自分。
でも、そのちっぽけな自分が今雄大な自然を見ている。
生きてこの風景を見ることは、もしかしてとても貴重なひとときかもしれない。
生きている。暮らしている。
生きてこうやって眺めることができている。
それだけでいいのかもしれない。
人の社会で暮らしているといろんなものがまとわり付いてくる。
しかしその付きまとう一つ一つの事は、自分にとって全てではない。
自分が思うほどそれらは絶対的なものでもない。
自分は今生きていて、そしてこれからも生きていく。それだけでいいのかもしれない。
悠々と流れる仁淀川を見て、自分で小さく狭めていた視野に気がつく。
川は何も訴えてこない。
けれど眺めるだけでいい。