日本では、自然万物に神様が宿ると考えられてきました。
自然に対して畏怖を感じ、一方で癒しを感じる。
自然の中に自分の心情を感じるのです。
自然は、ストレスの多い現在社会の人に癒しを与えてくれます。
八百万の神様
日本人の精神的根底には自然崇拝があると言われています。
つまり、「自然の中で人は生かされている」という思いがあって、自然の中に自分の心情を移すことがあります。
山の神、海の神などの自然そのものを神として祈る。
いわゆる八百万の神々がいるわけです。
台所のかまど(竈神 かまどがみ)はもちろんのこと、トイレ(厠神 かわやがみ)にも神様がいるのです。
電気・電波の神様、漬物の神様、いぼの神様もいますし、貧乏神や縁切り神様までいます。
日本の旧暦10月は神無月と言われ、出雲大社に全国の神様が集まり、神社に神様がいなくなるという言い伝えがあります。
神無月(かんなづき・かみなしづき)は神様が不在の月という意味です。
しかし出雲に行かない神様もいるんですよね。つまり、神無月に留守番をして地域を守ってくれる留守神様がいます。
四国の金毘羅さま(金毘羅神)も留守神様。
金毘羅さまは一年中どこにも行かず守って下さっているわけです。
ちなみに神様が集まってくる出雲では、旧暦10月を神在月(かみありづき)と呼んでいます。
日本人とメンタル
日本文化を見ると、俳句の季語とか、挨拶状などでの冒頭に書く時候の挨拶、など季節にまつわる言葉も多い。
日本人のメンタルに自然というものがどうしてこんなに根付いているのでしょう。
春夏秋冬の四季があるからか。
自然災害が多いからか。
稲作をするようになって、農耕民族として天候不順が不安だからでしょうか。
しかし、この自然信仰を都市部で生活しているときはあまり感じていませんでした。
子供の頃は神社に行っても、一応参拝はするのだけれどおみくじの方に気を取られていました。
あちこちの神社にあんなに行ったのに、その神様に関心がほとんどありませんでした。
ただ、縁結びの神様と厄払いの神様だけは、きちんと意識して参拝していました。
山にも登ったし、湖に泳ぎに行き、海にも行った。自然の中の温泉も行った。公園だって行っている。
修学旅行では尾瀬も奥入瀬渓谷も歩いた。美しい風景だったのに。
なのに、なぜ関心がなかったのだろう。
それはたぶん他に目的があったからだろう。
遠足という義務だったり、友達と出かける先がたまたま公園だったり、デートのために行ったり。
だから思い出の中には、誰それと話した、誰それと遊んだという記憶しか残っていない。
大人になってからは、街の風景とビル。空なんて見上げもしない。
まず上向いて歩くことなどほとんどない。
四国に来て、自然と初めて向き合った気がします。
高知の一面の青空。雲一つない。まるで絵の具を落としたかのようなブルー。
空ってこんなに青いんだ。
仁淀川の青い澄んだ清流。
太平洋の向こうに見える黒潮。
太平洋を見ると少し畏怖の念をいだきます。
安芸方面の道路から見えるエメラルドグリーンの海。
四国山地を流れる清流。
自分の心情が自然に影響されるとはこういうことなのか。
空が広い。